名駅の映画館「シネマスコーレ」(名古屋市中村区椿町、TEL 052-452-6036)で4月27日から、映画「戦争と一人の女」が公開される。若松プロダクション出身で若松孝二さんの下で映画作りを学んだ井上淳一監督の初長編作品。公開に先立ち、来名した井上監督が作品の見どころを語った。
同映画は坂口安吾の小説「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」が原作。元売春婦の飲み屋のおかみ、日々に絶望して飲んだくれる作家、戦場で右腕をなくした帰還兵の姿を通して、戦争に翻弄(ほんろう)される男女の性と暴力を過激に描いた官能ドラマ。自分に忠実に生きる女を個性派女優・江口のりこさん、安吾をモデルにした無頼派の作家を永瀬正敏さん、戦場から戻り性犯罪に手を染める男を村上淳さんが演じる。
戦争の日々に絶望した作家・野村(永瀬)は、飲み屋の女(江口)と刹那的に同居を始める。幼いころに遊郭に売り飛ばされて売春婦となった女は、不感症の体になっていた。戦争で死ぬ恐怖と虚無にさいなまれながら、二人は愛欲にふける。一方、中国戦線で右腕を失って帰国した大平(村上)は、自分が普通の性行為ができなくなったことに気付く。
井上監督は愛知県犬山市出身。地元の予備校に通っている時にシネマスコーレで若松さんに出会い、弟子入りを志願。早稲田大学在学中に、若松プロで映画を勉強した。助監督経験を経て1990年にオムニバス作品の一話で監督デビュー。その後、脚本家として活動してきた。本作が初の長編監督作品だ。「高校2年の時にシネマスコーレが開館した。当時、若松さんの映画を見ていたし、自伝も読んでいたが、開館で一気に近い存在に感じた。予備校時代にスコーレに座っていたら若松さんが入ってきたので、その場で弟子入りを頼んだ。4年間は東京で大学に通いながら、給料はもらわずに若松プロで監督を目指した。ここがなかったら若松さんに出会えなかった」と振り返る。インタビューの待ち時間にチラシの封入を手伝わされたと笑いながらも、縁のある映画館で監督作が公開されることに感慨深げだ。
安吾作品を選んだ理由を「欲しがりません勝つまでは、というステレオタイプではない、当時の人々のメンタリティーにどこまで迫れるかが勝負だった。安吾は敗戦の年の11月に、この2作を書いた。全く同じ時間軸を男の三人称と女の一人称で書いていて、現代につながる戦争物になると感じた。今までの戦争映画は大きな出来事や重要人物を描くことに時間をかけてきたので、こういう男女の話はスルーされてきた」と話す。
主人公の男女は、ぎりぎりまでキャストが決まらず、苦労した。「村上さんは早くから決まっていたが、女と作家は決まらなかった。江口さん、永瀬さんが受けてくれた時は、本当にうれしかった。撮影は10日しかなかったが、永瀬さんはあるシーンでどうしても痩せたいと、水すら口にせずに4日間で減量した。ヌードやセックスシーンを演じてくれた江口さん、若い女優たちをリードしながら過激な場面を実現してくれた村上さんら、俳優たちのすごさには驚かされた。低予算だったが、セット、衣装も含め、何一つ諦めることなく映画を完成させることができた。俳優、スタッフに恵まれ、感謝するばかり」と話す。
同作の初号試写の日、若松さんはイタリア、ベネチアから帰国して見に来てくれたという。「時差ぼけで眠いと文句を言いながら、見てくれた。見終わった直後に、ちっともエロくないと怒られた」と思いだす。訃報は、その1カ月後だった。「映画の宣伝もあって若松さんの遺伝子を継ぐといったコピーも付いたりするが、継げるわけがない。ただ、今の時代、席を空けておくと失われてしまう。若松さんが空けた席は埋めなければいけない」と語る。
若松さんから学んだことを聞くと「時代設定上、映ってはいけないものが映っていたり、平気で撮り忘れるカットもあったり。どちらかというと、やってはいけないことを見てきた。ただ、映画は何をどう撮るかだとしたら、なかなか学べない『何』の部分を教えてもらえた。若松さんは自分が集めたお金で自分の撮りたいものを撮り、ちゃんと回収する。今、ちまたにインディーズ映画はあふれているが、本当の意味で精神までインディーズでやっていた人」。
最後に監督は「本来、映画はものすごく広いものだったのに、日本だけが非常に狭まってしまった。この作品は本来、あるべき戦争映画を目指したつもり。30年前までは、こういう映画があった。決して口当たりは良くないが、体験して、映画館を出た後に考えてほしい。ピンク映画として見に来ていただいても」と、来場を呼び掛けた。