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名古屋を遊ぶ知のサロン、
やっとかめ文化祭に「ナゴヤ面影座」建立。

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ナゴヤ面影座は八句の連歌に見立てた8回シリーズ。今回はその第1回。お題は円空。舞台は、日本最大の像も含め約1200体の円空仏を収蔵する荒子観音寺。文化功労者で名古屋市出身の歌人・岡井隆氏を発句人に、日本研究の第一人者で知の巨人・松岡正剛氏を客人に、二人の円空論が交わされた。

文化功労者で名古屋市出身の歌人・岡井隆氏岡井隆氏
松岡正剛氏松岡正剛氏
荒子観音
荒子観音寺
 
旧きナゴヤの面影を慕いて
冒頭、岡井氏の詩がご本人の朗読で披露される。歌われたのは、空襲で焼きつくされた、今は亡き「ウアナゴヤ」。氏のやわらかな声の彼方に、旧きという意味のドイツ語を冠したナゴヤの戦前・戦中の面影が浮かびあがる。近世の気配、芸どころの暮らし、やさしい女性の面差しをした街…。もはや見ることはできないが、確かにここにあったウアナゴヤ。岡井氏の話を聞きながら、その淡い輪郭を、座の誰もが思い描いたのではないだろうか。
 
円空の和歌に前衛と古典を見る
生涯に12万体もの仏像を彫ったとされる円空は、和歌も数多く残している。その作風を岡井氏は「素直な歌。まるで言葉という鋭いノミで削りだしたような」と評し、松岡氏は「決して技巧を凝らしたものではないが、前衛と古典が混在する」と。そして、アララギ派に属しながら反旗を翻し、前衛短歌運動を牽引した岡井氏の歌にも、「やはり前衛の鋭さと、根源であるアララギ派の伝統が息づく」と語る。
一方、岡井氏はヴァレリーやマラルメなどフランスの詩人の名をあげ、日本の短歌にも西洋が入っている、と自身の歌づくりをひも解いていく。前衛と伝統、日本と西洋。相反するものを共存させる合わせ技。それは日本の文化そのものと言える。
変化と根源が同時に描かれた円空仏
円空仏の独創性、あの微笑みは、多くの人が知るところだろう。松岡氏は円空仏を見たとき、彫刻家のジャコメッティを思い出したという。自分の頭の中にある人間を彫り出したジャコメッティのように。いや、それ以上に、円空は頭の中にしかない仏達を、まるで眠っているものを起こすかのように木に彫り出している、と。そこには変化と根源が同時に描かれ、それこそが面影なのだ、と氏は論じる。
円空仏
神仏は目に見えない。しかし、心の奥底に立ち顕れてくる。円空は見えてはいないが、そこにある本質を小さな木片にまで彫り続けたのだ、という松岡氏の言葉は、円空仏のえも言われぬ魅力を言い当て、失われた名古屋の面影を再生しようとするナゴヤ面影座の試みにも通じるように感じた。
面影は、伝播する
変化と根源、表と影。それが面影。私たちは表に見えている変化だけに目を奪われて、あまりに影に無頓着だったのかもしれない。失われた名古屋、この地のそこかしこに眠る面影を、いかに揺り起こすか。円空ならぬ私たちは、やっとかめ文化祭という装置を得て、少しずつだが面影が目覚める瞬間を楽しんでいる。
面影は、いつだって美しい。変化と根源の間で揺らぐそれは、存在はなくとも人の五感に確かに迫ってくる。だからこそ面影を語るとき、人は熱を帯びるのだろう。そして、面影を聴く者は、見たこともないナゴヤの風景を目に浮かべ、円空のノミの音を耳元に響かせ、懐かしみ、愛おしむのだ。面影は、伝播する。今回、座に参加した聴衆は、やがて自らが面影の語り部となり、この地の歴史文化を伝播する役割を果たすのではないだろうか。
今後も数ヶ月に1度のペースで開催されるというナゴヤ面影座は、やっとかめ文化祭にとって核となる存在。頂きが高いほど山の裾野が広がるように、来年5年目を迎えるやっとかめ文化祭は中心を持つことで、その活動の裾野はさらに大きく広がっていくはずだ。
文:神野裕美
写真:あいざわけいこ
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